39杯目 文章書くとき、「である」で書くか?「ですます」で書くか?
カランコロン‥‥スナック「朝井」へようこそ。39杯目のお読み物をお届けします。
今日は文章についてのお話が多め。細かく分析・解説していたら大変読み応えのあるものになりました。
【本日のおしながき】
・お知らせなど
・オフ会、参加募集中!
・文章書くとき、「である」で書くか?「ですます」で書くか?
・実録!語尾かぶり警察
・街で話しかけられにくい人の特徴を発見したかもしれない
・初めての朝ドラ
・シメのラーメン
◆お知らせなど
じゃじゃん! 少し前にLINEスタンプを作りましたー!!
この「スナック朝井」を購読してくれていて、オフ会にも来てくれている子がイラストを描いてくれたのです! 超嬉しいー!!!
もともとはこちらのアイコンイラストを描いてくれたのがきっかけ。あまりにもかわいくて、LINEスタンプにしてみようよー!と話が進み、ついに実現しました!!!
LINEスタンプを作るのは夢だったので、本当に嬉しいです。
こういうかわいいイラストがツボなので、“すごく私っぽい”雰囲気のイラストをスタンプにできたのも最高!! みなさんもどんどん使ってくださいー!!!
◆オフ会、まだまだ参加募集中です!
10/26のオフ会も、まだまだ募集中です! まだ大丈夫だと思いますが、お店が埋まりそうになったら締め切りますのでお早めに~。
◆文章書くとき、「である」で書くか?「ですます」で書くか?
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」みたいなリズムのタイトルになってしまった。
この、であるですます問題は永遠の課題である。全ライターにとっての、と言いたいところだが、別に他のライターはもしかしたらそこまで考えてないのかもしれない。同業者の友達がいなさすぎて他の人たちが何を考えているのか全然わからない。少なくとも私は遡ること中学生くらいから、である・ですます問題に取り組んできている権威である。言い過ぎた。業績を残しているわけではないので権威ではないかもしれない。けれど、私の中ではまごうことなき権威だ。である調の中に「ですます」が混ざると、私という権威が私に対して指摘を入れてくる。やりづらいったらない。人様にお見せする文章で、である・ですますが統一されていないだなんてまあはしたない、というわけだ。
国語的なルールの問題、で片づけてしまえば簡単だが、そういうのは置いておいても、リズムが崩れるのがいただけない。たとえ国語の先生や日本語の教授が「混在してもいいですよ」と言ったとしても、私は反発する。とにかく嫌。どうしても受け付けない。例を見せたいところだが、リズムが崩れている文章を書くと体調が悪くなりそうなのでできない。
一本書こうと思って私がまず何から考えるかというと、この文体を選ぶことから考える。無意識にやっていることだが、たぶん毎回ここがスタート地点だと思う。私は「である」で書いた方が、私という人間によく似合っていて「自分っぽい」文体になると思っているので、本気の文章を書くときはほとんどの場合「である」を選ぶ。ところが、女性向けサイトはなぜか「ですます調」の記事が多いため、このサイトに私の「である文」が並ぶと浮くのではないか、と少し悩む。
ちなみに、エッセイストの辛酸なめ子さんは「ですます」でしか書かない。かなりの数の著作を読んだが、「である」だったことは一度もないと思う。辛酸なめ子さんの、丁寧な物腰でありながらも内心で小馬鹿にしている文章(←褒めてる)の小気味よさを演出するには「ですます」のほうが適しているので、自身のことをよくわかっているチョイスだと思う。傾向として女性エッセイストは「ですます」で書く人のほうが多いのだが、さくらももこさんは「である」の人だ。物事をどこか遠くから客観的に見て、分析したり解説したりするには「である」のほうがいい。分析だったり考察だったり、自分の脳内の思考を自分の中で完結させているような文章。これが「である」によく似合う。さくらももこさんのエッセイはそういう類の文章だから、ああいうのを書くときは「である」になる。
他には、教授や学者が何か難しいことを市井の民に向けて教えるような文章は「ですます」のほうがいい。コロナウイルスだの経済だのについて噛み砕いて教わるときには「ですます」で語りかけてほしいからだ。「である」で書かれると、自分の中に閉じこもってぶつくさ言っている印象になるため、内容が専門的なことであればあるほど、読者がついていけなくなってしまう。
そう、「ですます」には語りかける力がある。すぐ目の前にいる人が話しかけてきているような文章になる。エッセイストが「ですます」で書けば、友達が喋りかけてくるような文章になり、学者が「ですます」で書けば何かを教えてくれるような文章に。
私は長年、「である」の中に「ですます」を入れないことにこだわりを持ってやってきたが、あるときから、アクセントとして入れるのもありかもしれないと思い始めた。とある人のエッセイを読んでいたとき、「である」と「ですます」が混ざっているのに気にならなかったからだ。むしろ、そのエッセイのその箇所のリズム的には、混ぜたほうがいい。「である」に「ですます」を混ぜると、リズムが崩れると先述したが、むしろ「ですます」を混ぜたほうがリズムがよくなるケースがあるということか。例えば、ある内容について訥々と論じた段落で、その段落のシメで、語りかけるような一滴の「ですます」を垂らすと、なかなかどうしておさまりがよい。理屈はわからないが、延々と壁打ちで独り言を垂れ流していたかと思ったら、突然こちらを向いてきたような、いい意味での裏切りがあるのかもしれない。私が「である」に突然「ですます」を混ぜるときは、そのような意図で入れているんですよ。ああもう、文章書くのって面倒くさいったらない。
◆実録!語尾かぶり警察
「ですます」には語り掛ける力があるので、読者さんがメール登録をしてくれているここでは、「ですます」をメインに使っています。
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「語り掛ける」ことが求められるといえば、一時期ネットで流行っていた「お悩み相談系の記事」、あれの回答文もほとんど「ですます」で書かれていたはずです。SNSでたまにスクショが回ってくる新聞のお悩み相談の回答もほとんどが「ですます」なんじゃないかな。悩み相談に対して「である」で答えたらなんか偉そうだし、相談者に届かなそうだもんね。
「である」は書き手の内面を、誰に向けるでもなく壁打ちするような文章になりやすいから。
つまり、「である」を読むときの読者はその文章の「観察者」で、そこに書かれているものを覗かせてもらっているような感覚。「ですます」を読むときの読者は、書き手に語り掛けられている「聞き役」になるのかもしれない。あ、ほら、今書きながら私は自分の中の思考に潜ったから「しれないです」ではなくて「しれない」と自然と書いてた。自分の底のほうに潜って思索にふけったり思考や考察を垂れ流したりするモードのときは、書く側としても「である」のほうが書きやすいんですよね。
で、ちょっと別の話になりますが、「ですます」のほうが綺麗に書くのは難しいと思うのです。というのも、文章には「語尾かぶり問題」がありまして、例えば、「です。」で終わらせた一文の次にまた「です。」で終わらせる一文を書くと、ちょっと芋っぽい文章になります。
例えば。
例1)
今日のご飯はうどんです。僕の好きな食べ物だからです。特にきつねうどんが好きです。
例2)
今日はうどんを食べました。一番好きな食べ物は何かと聞かれたら、うどんと答えます。特にきつねうどんが好きです。
内容はどちらも同じですが、例2の文章のほうが綺麗ではないでしょうか? 例1は三連続で「です。」を使っていて、例2はすべて異なる語尾にしています。ここを気にして書けるか否かがプロかどうか、だと言いたいのですが……、ぶっちゃけこれ、プロを名乗るライターでも「です。」「です。」と連続で使う人はかなりの数います。自分がインタビューを受けた際の原稿チェックで、語尾がかぶっているのを直すことも多く、少しだけならいいのですが、全編に渡ってかぶりまくっていることもあって頭を抱えることもしばしば。まあ、ルールとしてダメというわけではないのかもしれません。単純になんかバカっぽい文章に見えるのが嫌で、なるべく語尾をかぶらせたくないのですが、多分ほとんど私の自己満です。
この語尾かぶり問題を考えるときに必ず思い出すのが、中学のときの英語の先生から聞いた「英語は同じ単語を繰り返すと稚拙に見えるから、なるべく繰り返さないようになっている」。それが子供心にカッコいいなと思った記憶が残っており、そのとき同時に、日本語でもそのほうがよくない!?と思ったのが今に繋がる自分のルーツなような気がしてなりません。
で、先ほど「ですます」のほうが綺麗に書くのが難しいと言った理由がここにあります。そう、「ですます」のほうが語尾のバリエーションが少ないから。
「ですます」の語尾は、
「です」「ます」「ました」「でした」「かもしれません」「だと思います」「ではないでしょうか」「でしょう」「しまいます」、基本的な語尾はこれくらい。
対して「である」の一族は、
「である」「だ」「なのだ」「なのである」「かもしれない」「だと思う」「だろう」「なのだろう」「であろう」「なかろう」「~でいい」「なってしまう」「体言止め」。
特に「体言止め」が便利で、どうしても「である」がしっくりくる一文と一文の間に、体言止めを一文入れることで、かぶってない扱いにできるのが強い。「ですます」でも体言止めは使えなくはないけど、急に「ストン」とリズムが止まる感じがして、使いづらいんですよね。
また、「ですます」は「です」じゃないとダメな文、「ます」じゃないとダメな文があり、単純に語尾を変えるだけでは対応できないことも多いです。要は、「です」を「ます」に変えると、スパイファミリーのアーニャになります。「今日のご飯はピーナッツです」→「今日のご飯はピーナッツます」。ほら、アーニャの完成。
もう少し詳しく見ていきましょう。今日のご飯がうどんだと言いたい場合。
例1)※ですます
◎今日のご飯はうどんです。/×今日のご飯はうどんます。/△今日のご飯はうどんでした(過去系として書くなら可)/×今日のご飯はうどんました。/△今日のご飯はうどんかもしれません(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんだと思います(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんではないでしょうか(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんでしょう(類推として書くなら可)/×今日のご飯はうどんしまいます。
例2)※である
◎今日のご飯はうどんである。/◎今日のご飯はうどんだ。/◎今日のご飯はうどんなのだ。/◎今日のご飯はうどんなのである。/△今日のご飯はうどんかもしれない(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんだと思う(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんだろう(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんなのだろう(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんであろう(類推として書くなら可)/△今日のご飯はうどんではなかろう(意味が変わるのでダメ)/△今日のご飯はうどんでいい(意味が変わるのでダメ)/△今日のご飯はうどんになってしまう(意味が変わるのでダメ)/◎今日のご飯はうどん。
このように、「である」のほうが変化をつけやすいのが一目瞭然です。特に「である」一族の「である」「だ」「なのだ」「なのである」の四天王の使い勝手の良さよ。また、特筆すべきは「である」は一つも「日本語自体がおかしくなる語尾」がない点。「ですます」系だと「です」を「ます」に変えられないケースがある一方で、「である」系だとそのまま語尾を変えるだけで使えます。
そんなわけで、「である」使い、おすすめです。「である」四天王を使うだけでも、比較的誰もが簡単に、綺麗な文章を書けるようになります。
◆街で話しかけられにくい人の特徴を発見したかもしれない
全然話は変わりますが、皆さんは街で人から声をかけられやすいタイプですか? 私はびっくりするくらい声をかけられません。本当に。先日、話しかけられにくい理由を発見したかもしれないので、ここに書いてみます。いや、話しかけられなくても別にいいのですが、なぜこんなにも話しかけられないのか、理由が知りたかったんですよ。
まず想像してください。自分が話しかけるときどういう人に話しかけたいか。