43杯目 人はいつ老けるのか
カランコロン‥‥スナック「朝井」へようこそ。43杯目のお読み物をお届けします。
今回、この記事のサムネイルになっているのは、昔飼っていた犬です。かわいいね。
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【本日のおしながき】
・本日のおつまみ
・人はいつ老けるのか
・お前のNoは無意味
・秋元康的な価値観
・ガラスペンのある生活
・シメのラーメン
◆本日のおつまみ
最近、ここのおつまみにハマってます。
ホタルノヒカリ。新宿の伊勢丹や、渋谷ヒカリエなどで買えます。本店は虎ノ門。なんかこう、ちょっとした手土産が必要なときに持っていくものにいつも困っていて、なぜ困っているかというと、注意力に欠陥があるがゆえに、何日も前から手土産をきちんと買いに行っておくことができないわけですよ。いつも予定当日の直前に必要な持ち物をごそごそやり始めるわけですから、「そうだ!手土産!」となるのも直前なわけですね。この手の手土産は、アンテナショップだったり、出汁とかにこだわりのある店だったりで買うといいものが手に入るのですが、そういう店ってたいてい、銀座とか東京駅の周辺に多いんですよ。つまり、直前だとササッという感じで寄ることができない! その結果、買うとなると新宿や渋谷になるわけです。それも、目的地までのタイムトライアルをしながら。ということは、駅ビルか、駅からせいぜい5分以内の建物でササッと調達しなければならない。そういう店で買えるものって、ほとんど箱菓子のようなスイーツなんですねえ! でもねえ、こっちは酒のつまみがほしいわけですから、箱菓子とかいらないんですよねえ! それでいつもいつも困り果てていたところ見つけたのがホタルノヒカリ。特にアジの燻製がおいしかったです。色々な種類があるので、また買ってみたい。
◆人はいつ老けるのか
1/28に誕生日を迎えまして、なんと、30代ラストイヤーです。朝井、意外と歳とってますよね。私もそう思う。わりと童顔寄りなので、じわじわと老けるよりもどこかで一気にガンと老けが来るよ、と昔から言われていたのですが、今のところまだ来ていません、たぶん。かつて思い描いていた30代と、実際になってみた30代とは全然違っていて、ものすごくおばさんになっているのだろうと思っていたけど、全然そんなことはありませんでした。思えば、20代になったときも、10代の頃に思い描いていた20代はものすごく大人だったけど、そんなことはなかったし、そういうものなのかもしれません。このままいくと、70歳になっても全然おばあちゃんじゃないや、とか言ってそう。いやでも、70歳だとさすがにおばあちゃんになってるのかな? いや、でも待てよ、うちの両親もうすぐ70歳になるけど、あんまりおじいちゃんおばあちゃんっぽさ無いな。
実家で飼っていた犬は19歳くらいまで生きたのですが、ずっとかわいいままでしたしね。最後の2,3年はさすがに毛も薄く体も萎れてしょぼしょぼしていた感じでしたが。だから生き物というのは、結構ずっと地続きで何も変わらないなぁ、と思っていたら、ガッ!と老けが来て、ガッ!と散っていくものなのかもしれません。
ただ私、小学生の頃に「長生きしたくない! 太く短く生きる! それで40歳くらいで死ぬ!」って言ってたんですよ。今でも覚えているくらいには強く思っていたんですが、もうすぐなっちゃうね、40歳。まだ死ぬって感じではないなぁ。いや、死ぬって決まっていて先んじて教えてくれれば、一切の仕事を辞めて貯金を使い果たして悔いはないってところまで持っていけるかもなぁ。いつ死ぬかわからないの、さすがに人間の設計、不親切すぎない?
◆お前のNoは無意味
もうずっとノノガのことを考えてる。ノノガとは、NoNoGirlsのことで、ちゃんみな主催のガールズグループオーディションで、これまでにNoと言われてきた人たちに向けたオーディションで、というざっくりした説明だけするので、詳しくは各自で調べてください。YouTubeで全話無料で視聴できるから。
ノノガ、自分にぶっ刺さるだろうなと思って観始めて、案の定ぶっ刺さっているわけだけど、振り返ると私の人生は一貫して、人間関係の中で投げつけられるNoに対して物申してきたからだと思う。『ひとりっ子の頭ん中』という本を書いたときは、「ひとりっ子」という属性を持つだけでNoと言ってくる奴らに、うるせぇよ、と言いたくて書いた。本の中で、ひとりっ子をとことん正当化して笑い飛ばしてやった。
かつて、驚くべきことにひとりっ子というだけで「ああ、だから…(苦笑)……」のような空気を出されることがあった。「だから…(苦笑)……」の行間に含まれるのは当然ネガティブなレッテルで、おそらく「だからワガママなんだ(苦笑)」などと言いたいのだろう。こんな酷い差別、今の時代はもう存在しないと思いたい。また、なぜかきょうだいがいないと寂しくて苦しい家庭環境になると勘違いされており、「ひとりっ子なのね、かわいそう」と、かわいそがられる。きょうだい喧嘩もなく、遊び相手は両親かゲームか漫画かテレビ、ショートケーキの苺は問答無用でもらえる家庭環境の、何がかわいそうなのか意味不明である。こちらから言わせれば、人を属性でジャッジするその感性を一度も「おかしい」と思わずに生きてしまってきたあなたのほうが、「かわいそう」だ。
『「ぼっち」の歩き方』や『ソロ活女子のススメ』も、人間関係の渦の中にいるとNoとジャッジされるのを避けられないから、ひとりの世界を生きよう、と提案した本だ。この手法はある意味で「逃げ」でもあり、人と接する世界にいたところで、どうせ他人のことなどわからないし、自分のことをわかってもらおうとも思わないというのがベースにある。他人を変えることはできない、人はわかり合えない、というとんでもなくネガティブな諦めの姿勢なわけだ。真正面から戦うことを避けて、自分にとってのオアシスを見つけるのも立派な生存戦略なので、逃げることが悪だとは私は思わない。ただ、ノノガの子たちは、私が決して人に届けることのできない種類の感動を作り出せていた。ノノガは、正面から戦っていた。正面から戦うのは、世間が変わってくれることを信じなければできないことだ。伝えることができる、と自分を信じなければできないことだ。
同じようにNoに苦しんで、真正面からぶつかって戦って乗り越えた姿を見て、胸を打たれたのだ。
◆秋元康的な価値観
ノノガを考えるときの対になる存在として、秋元康の作るグループやコンテンツを持ち出すのも雑な考えだなと思いつつも、やはり対極に近い位置にいるのは間違いないと思う。
ただ、ノノガ的な価値観を、自分を愛して自分自身がハッピーだと思うことをする、と定義するとする。じゃあ、秋元康的な価値観が「他人の目を気にして他人に愛される自分として振る舞う」なのかと言われると、そういうわけでもない気がする。たぶん、秋元康が上手いのは、「人々の欲望を